癌病棟なるところに1980年台の初めの頃、足掛け3年半住んでいたことがある。患者としてである。
爆発事故をおこし下腿に大怪我をしたからである。
最初は救急車で最寄の救急病院へ。初期の処置だけしていただいて、専門医のいる大学病院に転院した。
筋肉と関節だけであれば整形外科なのだが、皮膚も繊維もなんもかもとなると形成外科の守備範囲になる。
稀なタイプの治療で専門病室は無いから、大怪我の患者であっても癌病棟になってしまった。
朝6時に検温、パルス、採血があって、だいたいこれで起きる。
起床は7時、8時から朝食、10時までに点滴や包帯しなおしたりの諸々の処置をして教授回診を待つ。
12時に昼食、4時から風呂、6時に夕食、9時就寝。
ワンフロアに約100ベッド、これを東西に分け真ん中にデイルームがある。
ここでかろうじて自力で動ける患者が食事やお茶をしたりする。
極めて重篤な病人の巣窟であって、都内の便利な場所に存在するものだからして、見舞い客がいっぱいやってくる。
手ぶらで来るのはめったにいない。食べられらないのはわかっていても、古今東西の銘菓やら高級果物をぶらさげてくる。
命の蝋燭がまたたき、最後の砂時計の砂が落ち始めている病人を抱えた家族は睡眠も食事もろくにしてない。見舞い客に挨拶してノートにメモするのがやっとだよ。
連休ともなると、がさっとやってくる。ナースセンターの面会申し込みの窓口に行列ができる。
財界人とか。京・奈良の古刹、聖ナントカのエライかた。お茶やお花の家元級などなど取材がくるクラスが果てかけると倍増する。
がん専門の病院から、見舞い客が多過ぎで業務に支障をきたすと追い出されてきたと嘆いている爺様もいた。
届け物みやげ物は全部チェックされる。世の中には非常識な輩がいっぱいいて、洋酒タップリのケーキ、香辛料や塩分の強いもの、地方特産の発酵食品。
患者本人さんが元気だった頃は好物だったかなんかしらんけど、点滴何本もつないで、やっと生きてるんや。本場のキムチなんか舐めただけでKOじゃんか。
ドリア、ポポーなどのくっちゃい果物。患者達の病状を悪化させる物は見つけ次第ごみ箱へ。
7時に見舞い客追い出しのアナウンスあって、病室を警備員が回り、付き添いの家族以外の一般人を丁重につまみ出す。
看護婦さんが部屋を廻り、生クリームたっぷりのケーキやら熟れきった果物など「皆様でどーぞ」をかき集めきてくださる。
当直のドクターやスタッフの控え室にも届け物がある。しかしながら優秀なかたは間食なぞしない。食べ過ぎてというか、バランスを崩して病気になったのを山ほど知ってらっしゃる。
そちらの分もプラスになるから、なにを食べてもかまわない食欲旺盛な患者達にすれば、食べきれない量がやってくる。
食べるだけ食べて、残ったら全部捨てる。桐箱入りのメロンを丸ごと食える日もあった。
食欲がまったく無くなって点滴だけで生きてるかたでも、ばか言い合ってワーワーやってると、ぶどう一粒とかケーキの上のゼリーのかかったキウイを食べたくなるんです。
そんなんで食欲が戻って元気になられたかたが何人もいらっしゃいました。
退院できるのは1/3、あとの2/3はあちらに行く。退院できても半分は2週間もすると救急車で戻ってくる。とても悲しい場所でした。
おとなしく模範患者だったのは10日ほどで、またたくまに本領を発揮してデイルームのヌシになってしまった。
どうせ向こう半年はいるんだし、楽しくやらにゃ損じゃないかい。
大会社の社長もいれば米屋のオヤジ、ヤクザの親分、銀行員、ヘルスの女王、有名俳優、シェフ、司祭もシスターも坊様も。。。
ありとあらゆる経歴の持ち主がパジャマ姿で集まる場所。
身の上話や病気の進行具合、退院後の生活。深刻な憂鬱な話をしても扉は開かない。押し黙って青ざめて、屋上からヒラリになるだけじゃない。
今日だけでも楽しかったらいいじゃないか!がやがやわいわいげらげら。
はじめは5人ほどで9時までだったのに、ひと月も続けてたらドクターやナースどころか院長や教授も加わって11時までOKのワイワイになった。
うわさを聞きつけて他のフロアーからもスタッフが車椅子で患者さんを連れてくる。
三肢切断の少女、頭半分しかないおっさん、顔に鼻も目もない女性、転移で半身マヒ、まるで地獄絵図。
酒抜きドンチャンで、みんなぐっすり寝れる。入院してから初めて寝れたあ!と笑みいっぱいで翌日やってくる。
みんな夜が怖いのだ。毎晩どこかの部屋がバタバタ、廊下を走る音や家族の鳴き声が聞こえ、ストレッチャーの車輪のカラカラカラが闇に消えていく。
最初の入院は14ヵ月いましたが一番多い日は6人でした。梁の上の死神も病院のスタッフもヘトヘトだったでしょう。
地下の安置室は3部屋しかない。先にどなたか入っていらっしゃれば、あとからのかたは暗くて寒い廊下で部屋が空くまで待たなきゃならん。
そういう最後の最後までついてないのはヤダネ~~~と、翌日のデイルームは盛り上がりました。
抗癌剤の副作用なぞ普通に見えてくる。毛糸の帽子かぶってるのが半分くらいはいる。
顔色も青黒く肌もカサカサ。むくんで白くなっているのもいれば、骨と皮になっているのもいる。
胆嚢や膵臓からチューブを出して、消化液を貯めるタンクを腰にぶらさげていたり、胃に流動食を送り込むパイプが肩口に見えたりする。そして全員に点滴のチューブが付いている。
膝の関節炎の美人の美容師さんは術後に片足が無くなっていたし、腱鞘炎のはずの銀行秘書嬢は肩から先が無かった。
それでも動けるほどに回復すると喜んでやってきておりました。
「なんか変だと思ってたんだよねえ。難しい関節炎だからって大学病院を紹介されてさあ。整形外科の病棟からこっちに移されて、連日放射線治療だったし。抗がん剤が万能薬で関節炎にも効くなんて、どう考えてもおかしかったし。『メス入れてみたら、検査で見えなかったところに悪性の腫瘍を発見、教授の判断で足を付け根から切除しました。転移が始まる前で良かった。もうどこにも悪いとこはないです。健康そのものです。』なんて担当さんに言われたけどねえ。尻のでっかいのが目立つし、便器なんかね気をつけて座らないとボッコリ嵌っちゃってさ、何回もナースコールで引っ張り出してもらったあ。笑っちゃうよお。」
肩を揺らしてケラケラ笑って騒いでいるけど。悲しみでいっぱいの目が宙を泳いでいた。
腱鞘炎のほうは入院時から確信犯。妹さんが付属看護学校の学生さん、前の年に乳癌を切ってる。約3ヵ月間つきっきりで看病してるから病気の知識は半端じゃない。
夏の終わりに右手の小指と薬指のマニュキュアが乾かないのに気がついた。爪の手入れに3時間もかかっっちゃしょうがないからドライヤーで乾かしてた。
紅葉シーズンの社員旅行で保養所のエアホッケーをやって、思うように肘が動かないことがわかった。ぜんぜん痛みはなかったからリウマチではないなと自己診断してた。
12月になって、妹の術後1年目のお祝いをと伊豆へ湯治に出かけた。いっしょに入った露天風呂で腕の色が悪いのを発見。ふたりで丹念に触診して、肘の関節の下のグリグリを発見。
妹は「腱鞘炎だと思うけどね」なんて言うけど。顔色が真っ青になって震えていたから。あんたのウソはばればれだよと思ってた。
まだ先生いるはずだからと旅館から電話かけまくって、3日後に診察。局所麻酔でサンプルを採り緊急検査、即日入院とワンウイーク全身緊急検査後オペ決定。
「腱鞘炎の患者さんだから、ホントは整形外科だけど、部屋がなくてスイマセン」と告げられ、癌病棟のナースセンターまん前の個室へ。
田舎から駆けつけてきた両親と婚約者と家族が部屋で待っていた。おまけに今晩は補助ベッド出してもらって両親が泊まっていくという。
これで悪性の癌で右腕は無くなることを・・・確信した。
その日のデイルームはTVデレクター氏の葬式。
たまたま叡山の高僧がいて、「戦国時代の武将なんぞは戦に出る前に生前葬やってたんだし。江戸時代は不治の病になったら縁者で葬式やって死に装束で四国や富士詣でに出かけて、どっかで果ててたんだし。
病院だから罰当たりかもしれんが本人の希望があれば葬式やりましょうや。坊主冥利につきますなあ」
まあ同病相哀れむというか、極限状態の悪ノリか。希望者続出で連日葬式になっていた。
机の上に毛布を敷いて「死に装束」を纏った本人が横たわる。祭壇にみたてて「皆さんで、どーぞ」を積み上げる。ありがたいお経が約10分。灰皿に火をつけた煙草を3本置き、歳の順でほぐした煙草を石鹸箱からつまんで御焼香。
集まった本人の家族や縁者も加わり「嫌な爺さんだったけど死んだらかわいいもんや」とか「現役の頃は甥もこき使った鬼やったぞ」などと口々にお悔やみを語る。最後ににこやかな喪主の挨拶があって、おしまい。
古来よりのしきたりで葬式が終わるまで本人は一言も喋ってはいけない。怒ったりしたら地獄へまっしぐら。式が終わるまでハンディな楽器をチンチ~ンと鳴らしながら大僧正が小声でムニャニャニャ~~~。おごそかなものでした。
式が終われば「なおらい」。祭壇の供物をくずしながら本人をかこんで団欒。
当然、私もしていただきました。嫌々親父が喪服でやって来て、喪主の挨拶をしてくれました。「息子に先立たれる親というものは。。。なんやかんや」一字一句全部覚えてますがね。
大僧正がなかなかあちらへ行かないもので。本山から様子を見に来た正装の偉そうな坊様が4人加わった大合唱で、本格的だったのです。
それもあってか、なんなのか、親父さん挨拶の途中で感極まって目頭を押さえて止まった。30秒ほどして「はぁ~~~~~~」と息をついてから、とつ・・とつと・・・。
実習生のナースがふたり。。。「ウワアァァァ====!!!」大声をあげて泣き出してしまい、つられて全員嗚咽。。。エライことになりました。
TVデレクター氏は末期になってからの入院。美しい奥様と仲の良い家族の献身的な看護と、本人の類稀なる貪欲な生命力のかいがあり1年もった凄いかたでした。
私がデイルームにデビューした頃、すでに腰椎の両側にモルヒネを注入するためのステンレスのパイプが入ってた。フォークソングが大好きで、デイルームで合唱していると奥様に車椅子を押してもらってやってきて愛用のマーチンを奏でてる。
廊下で歩行練習していると、たいがい個室からギターの音色が漏れてくる。ご主人のギター伴奏で仲良し家族が楽しそうに歌っている。
本人のたっての希望で音楽葬。ゲストに本物の歌手を何人も呼ぶんだと言い張るし。。。芸能人もいっぱい来るらしい。。。デイルームや個室では、到底むり。
キャンパス内の教会に交渉してOK。^-^ 動ける人は全員移動。動けないかたのためにTV局の技術のかたが気を回されて、デイルームの大型テレビに実況中継。
本人の担当のドクターは色白の太っちょで頭がピカピカ。あだ名は「オバQ」。
本人はもちろん列席した患者のほとんどが抗癌剤のおかげでクリクリ。大合唱して熱くなっちゃって帽子をみなさん脱いでいたし。司祭と大僧正はピカピカ。クリクリピカピカ合唱隊。
どなたとは、ここでは書けませんが。長髪の歌手に「オバQ」が「あんたも我慢しとらんで、脱げ!毎日外来でズラかぶってる患者を見慣れてるから、はじめっからわかってるよ」
人前で脱ぐのは初めてだったそうです。絶対にナイショですよと、何度もことわって・・・脱がれました。ピッカピカ。おまけにてっぺんが凹んでたあ。爆笑の渦になりまして。大変なごやかな葬儀になりました。
9時ちょっと前に、どやどやがやがや戻ってきたら、表参道あたりのブランド物とおぼしき派手なシルクサテンのパジャマ姿の美女が「初日からコレカヨー!ヲカシーヲカシスギルウ~~~」などと叫び、笑い転げておられたのです。
デイルームで、まだおなかを押さえて笑い転げている婆ちゃん達に伺ってみると。
「みんなが教会に移動して10分くらいした頃かな、検査で切ったところが痛くて我慢できないとベソかいてきたんよ。痛い薬もらってあげて飲ませたら、なお痛くなってね。『痛くならない薬もらうんだったあ』って泣いてたの。特別番組が始まってさ。あのピッカピカの大ファンでね。会社さぼっちゃ公演いってたんだって。痛いのなんかどっかいっちゃて。もう10分早くきてたら一緒に教会で歌えたのにクヤシイ、クヤシイ連発だったんだけどね。ヅラでスイッチ入っちゃって。。キャーーーーー大きな声で叫んで。。。ずっとこれ。」
ケタケタが落ち着くのを待ってデイルームの仲間に紹介しようとしてたら、青ざめて目が吊り上ってきた。「痛いの?」と訊いたら「痛くしない、ゼンゼン痛いことなんかナイヨって言われて病院きたのに、ず~~~っと痛い。ウソばっかだ」えらい怒っとる。
「どのくらい痛いの?」と尋ねたら、「腕全体が心臓でドクーンドクーン。時々ビリビリビリっと来て、背中から頭のてっぺんに抜けて・・・グラグラッと世の中が揺れる。」
マラカスを持って踊っている当直医の「ねずみ男」に頼んで、肩にブロックを打ってもらう。5分もすると「痛いの飛んでった」にこにこしとる。
なんかしらんけど、トコトコついてくる。本人の個室を覗いてみたら。ソファーで父親がおいおい泣いて、母と妹がベッドで抱き合ってグシュグシュエ~~ン。「あんなとこ戻れん。やだー」
教会をかたずけた警備員さんから”とんでもない忘れ物”をことづかっていたのですよ。”ねずみ男の腕時計、オバQの聴診器、ピッカのズラ。”
まだ個室でやっとるはずだし、いっしょにおいでと誘ったら、「いいのお、サインもらおっと。」おめめクリクリ、キャピキャピ。
『この子は治って帰れるなあ』と感じた。元気という気は悪性の癌でもはねかえす。どんな薬よりも効く。
「死神」が「天使」を連れて登場。個室の皆様に大歓迎されました。応接セットの机の上にはあちこちからこの日のために贈られきたケーキがいっぱい。
天使さま・・・ケーキにどえれー詳しい。これはどこそこのなんとか、こっちはあそこのホテルの注文品、去年のクリスマスに予約殺到で食べ損ねたという有名店のブッシュ・ド・ノエルを発見。
またたくまに半分食べて、あっちゃこっちゃから5つほど切り分けてきてパクパク。「シアワセヤ~~~」などとつぶやき。ここのプリンおいしいんだあ。3個ぺろり。
だれとはなしに「どこの癌なの?」て話になり。右肩に左手の手のひらをあて・・・「週明けらしいよ」一同なみだはらはらはら。
お目当てのスターにパジャマの背中いっぱいに大きなサインを描いてもらい、居合わせた芸能人達も膝に書いたりお尻に書いたり。キャピキャピさんは「ぼわーん」
美容師さんは再発も無く、3児の母になりました。天使さんは半年後に職場復帰され、3年後に子宝に恵まれました。
三本足の「死神」こと私自身も重度の火傷による骨癌や皮膚癌、繊維腫の発生も無く、現在に至っております。
瘢痕性の良性の腫瘍はときおりできますが、発見しだい切除しております。
この文章を書くにあたり、記憶の箪笥の隠し引き出しの封印をあけました。思い出が走馬灯の影のようにかけめぐり。なんどもなんども涙しました。
・Schubert - Death and the Maiden 《別窓表示》 (音声あり)
・死神与少女 (1987) (DEATH AND MAIDEN) 《別窓表示》 紹介サイト
〃 映画 《別窓表示》 (音声あり)
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